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前世探訪7 今生と家族の関係
前世と今生をつなぐもの
母と二人で歩くのは何年ぶりであろうか。 小降りの雨の中を駅へと母と私は歩いていた。2004年2月2日。「アンジュさんと会うときは雨の日が多いんだよ。」僕はアンジュさんに始めてあった日も雨であったことを思い出していた。
母はもともと仏教が好きであった。しかし入信する類のものではなく、思想に興味をもっていたのだ。私が心理学からスピリチュアル関係に興味を移したとき、家にシャーリーマクレーンの本があった時は驚いた。しかし、母からは一切、宗教的な話や精神世界的な話を聞くことは一度もなかった。母も私がスピリチュアル的なことに興味を持つなどと全く考えていなかったのである。
母はその私に連れられてヒーラーであるアンジュさんと出会った。
「お母様はチベットで仏教のお坊さんでした。拓さん(私)とはそのときは一緒ではなかったですね。」
今までのセッションで私にはチベットの僧としての前世があることは分かっていた。母もチベットで僧をしていたのだ。アンジュさんの言葉を聴いて、私は母と「死者の書」の話をしたことがあったのを思い出していた。
「お母様は拓さんの前世だった覚如と同じ一派のお坊さんでしたよ。名前が残っている人です。」
なんと母とは数世紀を経ての再会であったのだ。同じ宗門の坊主同士だったのだ。数世代を超えてもなおあの時と同じようにスピリチュアルなことについて話しているのだ。
「だんな様(父)はとてもエネルギーの強い人です。武士を多くやっていましたね。」
私は父がいつも本を読んでいたのを思い出す。本棚には侍の本で埋め尽くされていた。
「矢で肺を貫かれて無念の死を遂げています。結核にかかって孤独な死の体験もありますね。」
アンジュさんが突然に父の肺に関して言い出したので非常に衝撃を受けた。
私は「父には背中のこの部分に痣があるのです。」ととっさに言った。
「それは矢で貫かれた痕です。お父様は前世での心の傷を癒しているのです。心の痛み、寂しさ、孤独感を癒しているのです。しかし病気や怪我をしても非常に大きなエネルギーがあるので守られているのです。お父様はアトランティスで神官をしていました。今、興味があるかはわからないですけれど、キリスト教の牧師だったこともあります。守る力が非常に強い方ですよ。」
父が今生で病や怪我に見舞われるのは何かの罰ではないのだ。彼は自分から自分の心の癒しの為に選んでいたのだ。「自ら進んで怪我や病気を!?」そうなのだ。父は選んだのだ。エネルギーが大きい、つまり転生回数の多い魂はその様な過酷な選択ができるのだ。しかし病気や怪我は誰にとっても苦しく辛いことだ。だから我々はすべてを忘れてここに来るのだ。大いなる自分が選択した厳しい道を進むために小さな自己(エゴ)が恐れないように我々は「忘却」と呼ばれる手段をとるのだ。
家・前世
「こんな・・・紺色の布を付けた・・・鎧を付けた・・兜をかぶった人ではないですか?○○家(私の家系)の先祖の武士かもしれないですね。」
「K先生はサムライが立ちはだかっていると言っていたのです。それは誰なのですか?」母はK先生のところで起きた奇妙な事件について聞いたのだ。K先生とは母のピアノの先生である。続けて母は聞いた。「どうした訳か私はその後で仏壇を購入したのです。そうしたら息子(末の弟)がその仏壇の前でポロポロ涙を流しているのです。」
「そのお侍さんはちょっとした供養をして欲しかったのです。仏壇を置いたことで供養はされていますよ。ただ、今日こうしてまたお話が出たのでお帰りになったら手を合わせてあげてください。息子さん(末の弟)は仏壇を通して魂レベルでそのとき交流があったようですよ。そのお侍さんだけではなくて幾つかの魂と繋がりました。女の人もいるようですよ。ご先祖様以外にも彼の仲間も来ていました。彼は仏壇の前でぼうっと座っていることがありませんか?彼自身は何が起こっているかわかっていませんがそれで良いのです。魂レベルで交流が行われています。」
母は霊の存在は当たり前のものと認めているものの別に見えるわけでもなく、感じるわけでもなかった。母の前に立ちはだかった武士はK先生の力を使って母にそれを伝えたのである。母は自分を守ってくれている先祖の武士なのだろうと言う程度に考えていた。時期を同じくして母は全く別の動機、いやその動機さえ本人が自覚することなく仏壇を購入した。そして弟がその仏壇を通して彼の意思の如何に関わらず魂レベルでの交流が行われ、その武士の供養も同時に完了していた。K先生は「いつも」武士の存在を見て、邪魔をされていると感じていた。それを母に告げたとたんにK先生と母の関係は絶たれた。一つの目的を果たしたのであろう。そして武士だけではなく、弟を通じて弟自身の仲間との交流が魂レベルで行われていた。
様々なレベルで私達の顕在意識では察知できない現象が精妙に調整されて起こっているのに驚嘆させられる。
「弟さんは武田信玄と同時期に生きていました。信玄は身体を癒すことができる川などを知る能力がありました。弟さんは同じ力を持ち、五感を超えた護身術を持って信玄に仕えていました。またお父さんと武士で一緒の時がありました。危険を察知する能力を持っていました。」
父に確認したところ、父の実家の家系は武田側の武士の流れを汲んでいるのだそうだ。弟が兄弟3人の中で唯一の父親似であることも偶然ではないのかもしれない。彼はこの家系に親しい魂なのだろう。
私の今生に見える前世
前世探訪の旅をひとまず終えてわかったことは探訪と言う機会を通して見えてきたのは他ならぬ自分の姿であった。自分の今までの人生を再び新しい視点で振り返っているようであった。このまとめの作業をしているときに、ふと屋根裏部屋を片付けたのだが、そのときに過去の日記やスケジュール帳、賞状、絵や文集、等々を見る機会があったのはおもしろい出来事であった。以下にその様な中で得たトッピックをいくつか記す。しかしそれらは証明ができる代物ではないけれどもパズルが組みあがっていくようで僕にはおもしろく思えてならない。しばらく付き合っていただきたい。
リーダー
僕は小学校に上がってすぐに班長や学級委員になった。恐らく学級委員は小学校3年からあるのだと思うが3,4,5,6年とすべてやったし、6年では児童会長なるものも引き受けた。
1年生の時も実はクラスの代表として卒業式に出席していた。僕は随分大きくなるまでこれは母が人見知りの激しい僕を矯正するために先生と仕組んだことだと思っていたが、そうでは無いと後で母から聞いた。
中学は学区域外に越境していたので小学校時代の友人はごく僅かしかいなかったがやはり学級委員、生徒会副会長、会長、部活の部長をやった。高校に入ってからも音楽部の部長を務めた。中学以降は小学生時代に養われた素養によってまとめ役に推薦されていたのかもしれないがどうして小学校1年からその様な役を引き受けていたのだろうか?それは単に偶然か?性格からだろうか
「八木が若い人を集めて何かしていた」という大沢温泉での老女の証言や、彼の著作「最近の満州の使して」や釜石鉄道設立の理事をしていたこと、また、高等学校設立の先頭に立ったり、市町村合併運動をしたりと、彼の行動に触れるにつけ何か自分に繋がるものを感じるのだ。さらなる前世である覚如が宗教集団を作るのに非常に尽力した人であったというのもおもしろい。
読書
僕は国語の時間に教科書を読むのを指名されるのが非常に好きだった。手を上げてでも読ませてもらいたかった。そして他の子が棒読みになるのと違って抑揚をつけて感じを出して読むのであった。八木が宮沢賢治の担任であった頃、読み聞かせをしたことは割と知られている。彼は自分に酔うほど感情を移入して読み聞かせていたらしい。「・・このときばかりは子供等の面持に異常の緊張さが現はれ、心から涙を流すもの、思わずかん呼の声をあげるものも少なくなかつた。私自身も自らの声音に上気して目がボーッとなるのであった」(岩手女性、第九号、昭和九年一月)と彼は言っている。実は場面は違うが人に語りかけるとき同じ経験を何度もしている。とても話が乗って来ると何故か目が潤むのだ。この涙は全く自動的で止めることができないのだ。僕はこの場違いな涙に不快感を覚えるばかりなのだけれども。この八木の記憶とリンクしているのだとすると不思議な気持ちになる。
しかしながら僕はいわゆる彼が読み聞かせた「少年小説」だとか言う類の本は嫌いだった。読んだこともないのに嫌いだったそれは小学校時代に図書館で本を借りたことは一度として無かった位である。食わず嫌いにも程があるが、嫌いなのにもそれなりの理由があってしかるべきである。しかし、今生には何も思い当たる節が無い。八木は『五来素川が「まだ見ぬ親」をはじめて翻訳した。私はかみつくようにこの少年小説を耽読した。大事な言葉は暗記する位まで進んだ。』出典、同上と言っている。それなのに僕はそう言う類の本は読もうとしなかった。僕は学校からも世間からも何か本を読むことがテレビを見るより遊ぶよりも尊い作業であるような言い方をされていたので反発していたのかもしれない。小学校4年のとき、夏休みに読書感想文を書けという宿題が出た。僕はどうしたか、本嫌いな者たちが皆そうするように後書きのみを読んで感想文を書いた。ただ、僕はこれで賞をいただいてしまった。何故、これ程まで頑なに本を嫌っていたのであろうか。
中学生になって心理学に目覚めてから僕の読書量は激増した。しかし、未だに小説の類の本はごく僅かしか無いのだが。
教師への思い
僕は学級員としてクラスをまとめ、どちらかというと良い子の印象であったのかもしれないが、先生を先生と思わぬところがあった。低学年の時、クラスが騒がしく先生の手に負えなくなったことがあった。先生は感情的になり「もう帰ってもいい!」と捨て台詞を残して職員室に引き上げた。動揺する他の生徒を尻目に僕は本当に帰ってしまった。後から先生が家に来て「何故帰ったの?」と言ったとき僕は「先生がそう言いました。」と言った。生意気なガキである。高学年になるとさすがに別の同じような場面ではクラスの代表として先生に謝りにいあったこともあったのだが。また、先生であっても自分の意見は意見として押し通したことが何度もあった。事実を誤認して先生が誰かを叱ったりすると特に僕は先生と対立した。先生というものは立場があるので生徒に指摘されるのは非常に嫌がった。しかし僕は先生を無闇に崇めなかっただけである。先生は特別な人間でも何でもない、この感覚は誰に教えられたわけでもなかった。先生を等身大の人間として見るところは八木が先生を経験していたからかもしれないし、ちょっと先生に対して攻撃的なのは八木が公職(教師)追放という憂き目に遭っているからかもしれない。
ある時、偶然に乗り合わせた電車で中学時代のブラスバンド部の後輩と邂逅した。彼女は音楽の先生をしているとのことだった。彼女は少し仕事のことで悩んでいるようだった。僕は彼女にこんな話をした。
僕は小学生の頃、青森の高校で体育の教師をしていた叔父の家に夏休みの度に遊びに行った。あるとき彼の学校の校庭でテニスをさせてくれることになった。初めてラケットを握った。そしてボールを打った。ホームラン!ボールはコートを越えて外へ出て行った。いきなり彼は「お前はテニスの才能が無いなあ」と言った。僕はそれ以来一度もテニスをしようと思ったことが無い。また同じように小学生の頃、音楽の先生に聞いた音楽に感動して「指揮者になりたい」と言った。その頃、僕は特に楽器を習っているわけでも、勉強をしているのでもなかったが音楽の先生は「あなたならなれますよ」とエールを送ってくれた。先生にしてみれば軽い気持ちだったのかもしれない。しかし僕はその言葉で音楽に親しむようになった。それから高校では本当に指揮をし、令和になった今も40年以上オーケストラでビオラを引き続けている。いかに先生の何気ない一言が若い心に響くか、僕は身を持って知った。たとえ、30人居る生徒の中の1人でもその様な子がいたとしたら先生と言う職業は責任ある仕事。と彼女を励ました。
岩手女性への寄稿の中で八木は語る。『賢治くん(宮澤賢治)は「春と修羅」をかいた。それから間もなくのこと、汽車の中で偶然一緒になり、・・・中略・・・「私の詩は哲学的に、思想的に、また宗教的に考へたときに、非常に偉大なものだと自負してゐますが、思想の根底はすべて先生の童話から貰ったやうに思って感謝してゐます。」といふ一言があった。哲人のこの言葉を正面から解釈していいか、どうか私は知らないが、少年教師(八木英三)の感化力が、そのやうなものがあるとするならば、国家が年少子弟の教育について、更に更に深き関心を持つべきではないだらうか。( )の注は拓による。その他言葉遣いは原文のまま』
車内での邂逅と言う背景まで似ているがその言わんとしていることは教師の若年生徒への影響力についてで同じである。教師への思いは八木と僕は同じである。
新聞係
僕は壁新聞を作るのが大好きだった。それは中学に入っても変わらなかった。そして特に文を書くということは何故か得意であった。しかも殆ど一人で作ってしまう。中学では国語の先生に一目置かれて、在校生総代として贈る言葉を書き、卒業式で読んだ。専門学校時代は講師の新聞記者に誘われて学校機関紙の創刊号への寄稿を依頼された。特に文を書く勉強をしたわけでもなかった。八木は教師をする傍ら「花釜新聞」を発行し、様々な著作を残している。ただ、どれもそうたくさん読まれているとはお世辞にも言えない。今で言う自費出版というような感じなのだろう。いずれにしても彼のこの気質と同じものを僕はひしと感じる。読んでもらえるかどうかよりも「作ること」それ自体が好きなのである。読まれるか、後世に残るか、人に影響を与えるか・・・それは関係ないのだ。ただただ、作り出したい。この拙文もその性質から生み出されている。
ここで当サイトをご覧になったTakさんからBBSに書き込みを紹介します。僕が「拓」と名乗り当のTakさんも本名に「拓」の字があり不思議な縁を感じる。以下BBSから転載
『八木さんは「壁新聞」を出していたらしく、父はそれを読むのを楽しみにしていたとのことです。内容が興味深く文章も上手で、次号の張り出されるのが待ち遠しかったとか...。父が復員し教職に戻ったのが昭和23年ですから、八木さんが公職追放になって公式の活動ができなくなってからのことでしょうか。当時は他にも壁新聞があったようです。』
僕は新聞と言えば今の新聞しかイメージが無かったのだが八木が作っていたのは壁新聞で僕は作っていたのも壁新聞であったのには驚いた。
鉄道・道
僕は道や鉄道に非常に興味を持っていた。小さい頃から家の周りの地図を何度も描いて遊んでいた。やがてそれはかつての水路の跡を探ったり、線路を探索したりする遊びへと変わっていく。小学生高学年になる頃には方々自転車で遠出していた。鉄道は普通の男の子が当たり前に好きなように好きなのであったが少々異なるのは廃線にものすごく魅力を感じていたことだ。いつも遊びに行っていた土手にそのときは既に閉鎖された踏切があった。また、総武線が高架線に切り替わったとき地上に残された今までの線路や踏切を何度も訪れた。・・懐かしいとか郷愁とかではない・・・そのときは小学生なのだから。何が僕を魅了したのだろうか。 花巻への3度の旅行は期せずしてすべて廃線を歩くことになった。八木が釜石鉄道設立の理事をしていたことは前述の通りだ。だから八木の鉄道への愛着を辿るかのように岩手軽便鉄道、花巻軽便鉄道の廃線跡を僕は歩いたのだろう。1度目は全く廃線を歩いているということに気づかなかった。2度目の旅で岩手軽便鉄道に少し注目し、3度目の旅で岩手軽便の廃線跡を辿った。しかし1度目の旅ではすでに花巻軽便鉄道の廃線跡を歩いていたことを3度目の旅を終えてから知ったのである。八木ははじめ花巻電鉄の社宅に間借りしていたのだから僕の旅も花巻電鉄から始まったというのも面白いと思う。
これから
「拓さんと弟さんはエジプトとギリシアで一緒でした。ギリシアでは天文学を学んでいた仲間です。アレキサンドリアの図書館で学者同士でした。また自分に自信をつけようとして入った宗教でかえって心を乱されてしまった時代があります。これからは自分自身を信頼すること、宇宙の真理を知ることが大事になっていきます。今、弟さんは不安や恐れがあってバランスを欠いている状態です。気持ちの力による現実化の方法を知り、自信を持つことです。」
私は大晦日(2003/12/31)に彼から言われた思いがけない言葉を思い出していた。
「今度そういう話(スピリチュアル的な)聞かせてくれよ」
アンジュさんのセッションから帰ってから母は僕に言った。「K先生が言ったのはあなたのことだったのかも知れないわね。そのときは誰だろうかと思ったけれど」
K先生はこう言ったのだそうだ。「この息子さんがあなたの家の要になるわね。彼は大器晩成ね。」
母は「じゃああの子(弟)を頼むわ」と言って父と共に帰って行った。
次の日曜日、私は弟にメールで今回のセッションのことを伝えようとパソコンの前に座った。しかし途中まで打ってから急に電話をしてみたくなった。年に1回あるか無いかの稀なことである。すると弟は言った。「今日は家にいるの?今から行くよ。」
私の家でスピリチュアルな話を初めて弟とした。
さて、私はK先生が言ったように「大器晩成」なのだろうか。とても楽しみである。この年でまだ「成って」いないのだからかなりの『大器』なのだろう。 私は自分自身にどんなシナリオを用意したのだろうか。」
前世探訪 了

前世探訪