本文へスキップ
前世探訪6 覚如
日本 中世での前世
アンジュさんにまず日本での中世に僕の前世は無いだろうかと尋ねた。すると
「平安時代は無いです。」
「平家では無く、源氏の方、親鸞の教えに従っていた武士がいます。親鸞の家にまで出向いて自分が疑問に思うことを尋ねています。この人は高僧に会える身分の人です。」

また続いてこの様に続けた。
「親鸞の影響を受けたまま仏門に入った人がいます。この人は教えそのものを教えることをする人です。本を書いて政治に絡んでいっています。奈良か京都ですね。頭を剃っていてこんな感じの服を着ています。」覚如
覚如は17歳のとき天台宗などを学び出家、南都六宗の一つ法相宗を研学するのだが浄土門への思いが強くなって行き、遂には浄土宗西山派の法門に入って学ぶことになる。この件はアンジュさんの言った「親鸞の影響を受けたまま仏門に入る」と符合している。そして彼が親鸞の教えを正しく(彼の思うところの正しさだが)広めるべく浄土真宗を立ち上げようとするところは「教えを教える」を表しているのだろうと感じた。さらに「こんな感じの服」とはまさに覚如の肖像画にあったものであった。 そこで始めて僕は覚如の名を彼女に告げた。
八木の場合もそうであったが、その前世の影響が色濃く出るものである。前述の通りアンジュさんに因れば鎌倉時代に源氏側の武士で親鸞の教えに従っていた者の前世があると言う。これがあったから覚如として親鸞の教えを正しく広めようとしたのか、または覚如としてその前世が必要だったのだろうか。鎌倉時代に武士として生まれ、親鸞に影響を受けて生涯を終え、親鸞の教えを広めるために選んで覚如として生まれてきたと言うのはわりと理解しやすいかもしれない。少なくとも覚如がその前世の影響を受けているらしいことは言える。
なぜ名が残っているのか
覚如の名を告げた後、アンジュさんは戸惑っていた。と言うのも今までの経験上、一人の人の前世にいわゆる名が歴史に残る有名人はまず、出たことが無いのだという。それで僕に「八木」「覚如」と出たことにアンジュさんは腑に落ちないものを感じていた。 覚如の母親と祖母について尋ねると
「グランディングをしている母親、おばあさんはスピリチュアルに敏感な人」
と答えた。覚如の母親は覚如3歳の時に亡くなっており、どの様な女性であったかわからない。祖母は親鸞の末娘の覚信であり、親鸞の娘と言うこともあってスピリチュアル思考性を持っていたことは十分に考えられる。ここへ来てアンジュさんが見ているものは覚如であることがより確かになった感があった。ただし、アンジュさんはヴィジョンに出てくるその人が名を告げるわけではないので僕の前世が覚如だとはまだ言わなかった。
「八木さんは(僕と)エネルギーが全く一緒だった。覚如はちょっと違う。物事の捉え方は一緒だけど・・・」
としばらく考え込んでしまった。沈黙を破って彼女は言った。
「そうか、あなたの名前を見ていけばいいのか!」
と。そして彼女は目を瞑ってまぶたの裏に書かれている何かを読むかの様にしていた。
「名前が出ました!覚如はあなたの前世です。」
「テーマとして、何かを残すこと、本を残すこと、直感に従って正直にすること、ということをあの時もやっていたのね。そう、本を書かれると良いですよ。」

彼女は一人で納得するように言った。
これはこの覚如という前世を始めに教えてくれたDさんが言っていたことと符合することだった。
「あなたは後でこれが自分の前世だったと判るように何かを残しているのです。だから探せばきっと判るはず。興味があったら調べてみてください。」
覚如と唯善
唯善は覚如の叔父であるが彼らの間には激しい争いがあった。それは留守職を巡る争いである。留守職とは親鸞の墓を管理する役目であったが覚如はこれを親鸞の教えを継承する役として高めていく。その途上で叔父との確執があった。このことについてアンジュさんに聞いた。
唯善は保守的な人であった。覚如は彼に対して「今までの様な保守的なやり方をしているからダメなのだ。」と感じており、そして宗教としてまとめ上げていくのに必要なものはすべて使うと考えていたようだ。親鸞の教えを正しく伝える教団を作るヴィジョンを確実に実行するためには奇麗事では済まされないとの覚悟があった。
唯善と覚如が論争したことが「慕帰絵詞」「最須敬重絵詞」に語られている。
「宿善(良い報いを今生受ける原因となる前世での良い行い)を開発することによって善知識(人を導いて仏道に入らせるきっかけとなる人、高僧)との出会いを生み、法(仏の教え)を聞けば信心歓喜する故に報土に往生しうる。」
と主張。これに対し唯善は
「十方衆生を救うと誓っているので、さらに宿善の有無を問題にすべきでなく、仏の本願に会えば必ず往生を遂げうる。」
と言う考え方であった。唯善のそれは聞いたままをそのまま深い理解無くしての言説のように思える。覚如のそれは一歩間違えば親鸞の絶対他力の極楽往生説に対立する自力的理解に繋がる危うさを含んでいる独自の理解に立ったもののように僕には思える。
親鸞の思想は「行」を行ったり、修行することによって人は救われるのではなく、既に阿弥陀如来の本願によってそれは達せられているが善人よりも自分が悪人である自覚があるものこそ往生が可能であると説いた。ここから唯善の言うような宿善の有無は関係無しと言う主張が当然考えうる。しかし僕は親鸞の力点は往生にあるのでは無く、今この瞬間に自分が煩悩の深い悪人であることについて思いを馳せることであると思う。往生は端から決まっているとすれば往生できるか、できないか、は関係ないのである。これはイエスも同様の主張であると僕は感ずる。この世にあって「執着を持つこと」つまり煩悩を持つ自分自身について深く見つめ、その執着の無意味さに気づくことが大事なのだと言うことだ。そして執着することに執着しなくなったとき、この世の仕組みを本当に理解したと言え、それこそが往生であろう。はじめから目的地にいるのであってただ我々はそうだったと気づくのみである。
覚如の宿善についての言及はその理解にたって、さらに前世と今生の関係に関して表明したのだと僕は思う。彼は自分の前世を知って言っているのかの様に思えるのは面白い。
覚如とその子、存覚
存覚は覚如の長子である。彼は非常に聡明であって、各地での布教にあたって覚如は存覚を伴っていた。そしてもっぱら存覚が民衆に説教していた。そして覚如は存覚を自らの後継者にすべく45歳にして隠居してしまった。存覚は留守職への就任を固辞したが覚如は強要してしまう。その後8年間、存覚は留守職にあったが、覚如は存覚を義絶(縁を断つこと)するに至る。この経緯には3つの説がある。

法義説: 仏の教法について見解の相違があったと言う説で長い間、支持されてきた。
感情説: 存覚の声望が高まっていくのにつれ、覚如、存覚の両者の確執を目論みある者が覚如に誣告(わざと事実を偽って告げる)し、覚如が存覚を排斥した。あるいは覚如が若い妻を次々と迎える中で長子存覚と継母の間に不和が生じた。などとする説。
留守職問題説: 留守職を決めるのは門弟にあるとして門弟らが存覚を擁立して覚如を排斥しようとしたことに端を発するとする説で真宗教団内で定説化している。
アンジュさんによると・・・ 存覚は自分の学んで来たことに対して非常にプライドがあった。そして「これからは自分なのだ」「親よりも自分だ!新たなものを作るのだ。」との野心が生じたのだと言う。事実、存覚は覚如と異なり浄土教の修学は希薄であった。そして存覚の中に覚如が大事にしていた親鸞教義の特殊性は消失していた。どちらかと言うと存覚は親鸞以前の浄土宗系思想であった。覚如は親鸞至上主義の理念に立って、本願寺教団の思想的、世俗的発展を希求したが存覚にとって親鸞は単なる知識の一つであった。ここに決定的な考え方の違いが生じていた。義絶前の時点では覚如は存覚を後継者にしようと決めており、布教も存覚にさせていた。そうして地方門徒の一部に存覚は支持されていく。その雰囲気の中で存覚に野心が芽生えるのは当然の成り行きであったであろう。とうとう覚如は自らが目指した親鸞の教義の伝承と言う最重要課題が破壊される恐れを感じ止む無く存覚を義絶するに至ったのではなかろうか。
「覚如上人と存覚上人との教理関係」の中で中島覚亮氏は法義上の問題はあったとしてもそれは宗義や宗意のことではなく伝道に関する問題だと指摘する。「覚如は専ら内を固めようとしたのに対し、存覚は外に広めていこうとした。」この存覚の行為が東国門弟の存覚支持を誘発させたと言う。この様に見てくるとアンジュさんの語った存覚の言葉はとても自然に響く。今まで言われてきた諸説はすべて相対するものではなくそれぞれに違った角度から捕らえた覚如と存覚の関係だと考えられるのではなかろうか。
アンジュさんは覚如についてこの様に続けた。
「覚如は当時の横と縦の関係を最大限に利用して理想を生き、仏門に入って教えを残す方法を考えていた。存覚の野心に満ちた暴走を自分が許す訳にはいかないと言う強い決意があった。」
覚如は周囲の度重なる勧めにも応じず存覚を許さなかった。これは覚如自身、自らを律して許さなかったのである。心が弱ったとき、覚如も許そうとしたことがあったらしい。しかし覚如はそれを自分に許さなかった。彼は身内であり、長子である存覚を傍に置いていたいと内心思っていた。しかし遂に覚如81歳、死ぬ1年前、存覚からの要望を受け入れ、義絶を解除することになった。ただし、覚如は義絶は解除しても本願寺の寺務職に就けない方針を記した置文を残す徹底ぶりであった。
足利尊氏と直義の衝突により世情が不安定になり動乱の世となった。以下は覚如が存覚に会った際のできごとである。
「この様な動乱の際には、父子が一所に居住することがもっとも本意にかなうことである。しかし、いろいろな事情により、父子が別居し、お互いに助け合えないことは本意に背くことであるが、やむを得ない。・・・・老齢の今においては、後日の再開を期することもできない。今が今生の別れだろうと覚如は言い、落涙千行に及んだ。存覚もまた離愛の情に堪えず、双袖を濡らして悲しんだ。」
その後も離れて暮らしながら存覚は覚如へ戦乱の京の都を掻い潜って資金を援助したりした。
存覚は覚如がちょっとした風邪をひいたとの知らせを受けた。その翌日存覚は戦火の京に馬を進めやっとの思いで覚如の元に駆けつけたが既に入寂していた。存覚は臨終に立ち会えなかったことは痛恨の極みであると「一期記」に記している。 この様に父子の情は決して希薄ではなかったことが伺える。その中で覚如は自分の理想とする教団成立のために自らを戒めて存覚を排したのである。まさに覚如以外に存覚を排除できる者はいなかったので「存覚の野心を自分が許す訳にはいかない」アンジュさんの言葉は覚如自身の生の言葉として感じることができる。
この後の真宗教団は従覚が継ぐ事になるのだが覚如の意思はそのまま継がれる事は無かった。だからこそ覚如は頑なに親鸞の教えを守ったのであった。覚如は「親鸞聖人伝絵」で親鸞の臨終の描写には全く奇跡的な事を加えることはしなかった。それにも関わらず、当の覚如自身の臨終に関して存覚、従覚は様々な特異な現象を著書に記述している。実は覚如が伝え、広めようとしていた親鸞の思想は覚如が意図した親鸞の思想的荘厳化と本願寺の本寺的性格強調による世俗的権威化によっては成就不能だったのだと私は感じる。それは親鸞自らが全く開宗意識を持っていなかったことで理解できる。イエスも釈尊も同様にして自らの体験、思想は伝えるがそれを組織化しようと言う意図はなかったのである。それどころかそれは無理な話であり、組織化した時点で彼らの思想は崩れてしまうのである。それぞれが自ら探求し自分で発見する以外に無いものを教えることはできない。イエスも釈尊も親鸞も自分がある場所(状態)居る、成っていると言うことを伝えており、それがあるのだと指し示している。しかしそれはそれぞれの人が自ら体験しなければ理解したとは言えないものだ。覚如は親鸞の素晴らしさを何とか広く正しく伝えようとした。しかし広く伝えようとすればするほど正しく伝えられなくなると言うパラドックスが初めから潜んでいたのである。私は覚如が親鸞によって覚醒された自らのスピリチュアル性を世俗と折り合いをつけ、浸透させようと生きた人であったと感じる。
「前世探訪7」 今生と家族の関係に続きます。

前世探訪