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前世探訪2 前世に導かれて
再び花巻へ
2002年3月31日
「この坂の下で蕎麦屋をやっていたね。よく若い人を集めて何かやっていたよ。奥さんは派手な人だったっけ、都会で暮らしていたのだろうね。でもあんたが生まれる前ずっと前にここからは居なくなったよ。死んだんだかどうかは分からないね。役所へは行ったのかい?」
前回の花巻への旅。大沢温泉で働く老女に八木英三の消息を聞いた時の言葉だ。僕はその時『また来る事になりそうだ』と漠然と思ったのだった。 翌日4月1日、本社工場から東京営業所へ異動となった。
営業所の夏期休暇は変則的である。各自が8月のどこかに夏期休暇が2日とれる。
花巻へ誘うメッセージを頻繁に目にする。それは『花巻へ』と自分が思うからだろうか?それとも頻繁に見るからそう思うのであろうか。朝見たテレビ番組で花巻の紹介をしていたと思うと乗った電車の広告に「岩手銀河プラザ」と言うアンテナショップの広告を見つける。そして通常、同僚が集金に行くはずのところに僕が代わりに行くことになり帰りにその銀河プラザに立ち寄る事ができた。などなど。そうしているうちに『花巻行き』は現実味を帯びてきたのである。
今回は車で行こうかと考えていた。もっと自由にまわってみたい。そんな思いからだ。しかし東京からだと移動だけで半日かかる。そして運転の疲れも同時に心配された。さりとて深夜バスはもう懲り懲りだったし、新幹線は非常に高かった。考えれば考えるほど『花巻行き』は現実味を失っていった。なんの準備もないまま休みだけが迫ってきたのだった。
5日前
千葉駅で列車に乗り換えるまでの時間があったので旅行パンフレットをたまたま見ると【イーハトーブ】の文字が見えた。(前回の花巻行きのバスの名前が【イーハトーブ号】)そのパンフレットに格安の花巻のツアーがあった。新幹線と温泉がセットであった。残念ながら大沢温泉ではなかったが僕が大沢温泉からの帰りに車中から見てしっかりと記憶にとどめていた【志戸平温泉】が宿泊地であった。新幹線と温泉で27,000円は安かった。すぐにJRのびゅー予約センターに電話をしたのだった。オペレーターの女性の声で、「申し訳ございません。新幹線が満席です。2,500円追加いただければ別の列車をご案内できます。」僕は何故かその一言で一気に熱が冷めた。「そうですか、とりあえず考えさせてください。予約は取り消します。」出発予定5日前であった。
2日前
僕は京都でも行こうかと思案した。八木以外にも調べてみたいものがあったからだ。しかし・・・その旅の計画もしないまま、とうとう休暇2日前になってしまった。 朝、家を出て駅に向かう。ふと「キャンセルが出ている可能性もあるかも」という考えが湧き上がってきた。 仕事で五反田に出た。顧客を訪問した後。千葉のびゅー予約センターへ電話をする。「席は空いております。ただし、お電話での予約は終了しました。」との返事。『そうだ!東京に行けばその場で切符を取れる』と思いつく。本来なら地下鉄で会社に帰るところだが、JR経由で行く事にしてJR五反田に向かった。するとそこに「びゅー五反田」があった。すぐにそこで予約をとった。 ここへ来て急展開、すべては当初の思い通りとなってしまった。
宮沢賢治記念館
2002年8月25日(日)
始発で東京へ向かう。仕事で何度も通る東京駅だが、今日は違って見える。子供の頃の様にわくわくした気分だ。 9時半には「新花巻」に到着。前回のバスの旅と比べると格段の速さ。案内所でバスの時刻表を入手した。 駅を出て、タクシーに乗り賢治記念館まで行った。特に何か考えは無かったが再び訪れたいという気持ちだけがあったのだ。 2度目の記念館、入ると案内のおじさんが展示品の説明などをしていた。僕は彼に「八木英三先生について知りたいのですが・・」と言うと「こちらへどうぞ。」となんと宮沢記念館の館長のところへ案内されたのだ!「この方は八木先生について知りたいそうです。さあどうぞ」と奥へと案内された。学芸員の女性が「調査したとき、宮沢賢治を撮った写真館のおばあさんが八木先生に教わったと聞きましたね。」と言った。彼女が出してくれた資料に八木英三の写真(前世探訪の写真)があり、簡単な略歴が載っていた。そこには【昭和33年没72歳】と書かれていた。実は今回の旅で一番知りたかったことが彼の没年だったのだ。知りたいことが真っ先に知れてしまった。 館長は「八木先生で良いことは聞かないね〜。何か功績があればもっと資料が残っているからね〜。」と言った。なるほど八木英三の世間の評価が推測される言葉だ。館長はそれ以上口を開こうとしなかった。単に知らないだけなのだろうか、それとも八木に良くない印象をもっているのであろうか。少なくとも館長の中では八木は取るに足らぬ人物なのだろう。【色あせない人生】(前世探訪3参照)※作成中と言う言葉が再び脳裏を過ぎった。
前世の住んだ町
バスで花巻駅まで行くとお昼だった。 前回の旅で、タクシーの運転手に「わんこ蕎麦でなく冷麺を花巻で食べな」と言われたのを思い出した。前回泊まったホテルの裏手に出るとあの時には気づかなかったが石碑が建っていてそこには 【岩手軽便鉄道花巻駅跡】 とあった。岩手軽便鉄道駅跡岩手軽便鉄道花巻駅跡どうもかつては今の釜石線とは別のルートが存在していたようだ。女学校への松並木 冷麺を求めて坂を下った。すると八木が勤めていた女学校の近くの赤い橋が見えた。旧女学校入り口松並木何故かこの橋は旧国道4号線の上に架かっている。つまり道の上に架かっている道の橋。国道の勾配を緩くさせるために国道を掘り下げたからこのような構造になったのだろうか?などと思った。懐かしくなって意味も無くその赤い橋へ国道から上がって行った。今は生涯学習センターとなっている女学校前の松並木を見て、今度はそれに背を向けて逆に歩を進める。一向に商店街らしきものは現れなかった。お腹を空かせたまま辿り着いたのは「花巻市役所」であった。今回は八木がいつ亡くなっているか調べるため市役所を訪れようとは思っていたが、その用は記念館で果たしてしまっていたので市役所に用は無かった。市役所の前に古い木造の建造物が建っていた。そこには「花巻城時鐘」と案内が出ていた。そこにまた石碑があった。花城小学校跡【花城小学校跡】花巻小学校跡 前回は花巻小学校を求めて現在の花巻小学校に行ったのだがそこは新しくて八木が賢治に教えていた所ではなかったのであった。しかし今回は労せずしかも、求めていないのにそこに辿り着いてしまったのだ。まあ、狭い市内なので歩きまわっていればいつかは辿り着くのだろうが・・・・しかし、僕はただ、冷麺が食べたくて歩いていただけだった。
さて冷麺。【やぶ屋】と言う大きな蕎麦屋があった。僕はどうも入る気にならなかった。よく観光地にありがちの大量の観光客相手のあまり美味しくないレストランのような気がしたのだ。しかし10分以上辺りを歩いたが他に見当たらず諦めて【やぶ屋】に入る。蕎麦で特に「わんこそば」で有名な店のようだ。しかし冷麺を注文する。初老の店員さんが冷麺はすでに無いようなことを言った。しかし、まだお昼なので売り切れとも思えなかった。もしかしたら季節商品なのかもそれない。その店員さんはいったん、奥へ引っ込みまた出てきて冷麺はあると言って注文の確認をした。にもかかわらず・・出てきたのはどう見ても冷やし中華であった。食べても普通に美味しい冷やし中華にしか思えない。「これがタクシーの運ちゃんが言っていた冷麺なのだろうか?それともここ(花巻)ではこれを冷麺と呼ぶのか?」納得行かないまま「やぶ屋」を出た。駅に戻ってタクシーに乗って花巻図書館に向った。
見つからない本
図書館に着く。そこで見た盛岡を紹介する本に冷麺が載っていた。先ほど食べたものとはまるで違っていた。どうも何かの手違いだったようだ。今度は機会を作ってやぶ屋では是非「そば」を食べたい。
郷土資料室に通された。再び八木の本との対面。何故か「釜石鉄道繁盛記」だけが見つからなかった。どうもそれだけ別の書庫に収蔵されているらしい。 また、前回も読んだ八木の著作を眺めてみる。やぶ屋の広告やぶ屋の広告 八木の著作の中に『復興への道』があるのだが、前世探訪でも記したがこの類の本らしからぬ広告が巻末に載っていた。それを見ていて笑ってしまった。と言うのも、先ほど「自称」冷麺を食べた「やぶ屋」からも彼は広告料を得ていたのだ。八木の広告料の取り過ぎか?冷麺でなく冷やし中華を出されたのはその仇を取られたのかも知れないと可笑しくなった。 そう言えば・・・母から聞いた話なのだが・・・ 僕が母のお腹の中に居たときのこと、昭和40年初夏、母は無性に「冷やし中華」が食べたくなったそうである。僕が生まれたのは6月であったから5月頃のことだろう。当時はコンビニもなく、季節商品は本当にその季節にしかなかったので、父は苦労したそうである。 ぼんやりと思う、もしかすると、八木の好物は「冷麺」でなく「冷やし中華」だったのかもしれないと。もちろん僕の好物でもあるが。するとやぶ屋での一件はやぶ屋の仕返しでもなんでもなく、八木自身がここで冷やし中華をよく食べていたことを教えてくれたのかもしれない。 冷麺を探したのは前回の旅で乗ったタクシーでの会話が発端であった。前回の旅と今回の旅はこのように関連しあって進んでいるのだ。
前世の夢を叶える
このサイトを御覧の方々には面白みは無いものだけれども、八木が資金難にあえぎながら世に送り出し読まれることが少なかっただろう彼の著作の一部を、彼が想像さえし得なかったインターネットと言う方法で発信することで彼の希望を叶えてみたい。
「稗貫風土記」、「刊行の目的」の一節(できる限り原文に忠実に写したので読みにくい箇所もあるがご容赦願いたい)。
稗貫風土記私は好んで農村を漫歩する。これは私の一つの趣味であり、健脚は三日と室内に寵居することを許さない。人はご苦労様と言うけれ共、私には一つの楽しみである。この健脚と漫歩癖とがこの企画に対して尤も好個な資格であり、これ丈けは他の企及を許さないと信じている。私は今年六十五歳になつた。日下甚だ頑健だけれ共百有年の長寿は望むべからずとすれば先づこれ位のところで決心して、今までの経験を活用して後世に残しておくべきだと覚悟した攻第である。 平野健蔵は私を傳書鳩と批評した。私は青年時代日本国中を方々樽々したばかりでなく。或は職を求めて朝鮮に渡り、満洲入りしたこともある。大体は教員の職であつたから夏冬二回の休暇がある。この休暇を待ち兼ねて必す郷里に帰って来た。途中で道草などを食つたことが一度もない。九州の柳川に居たことがあるが七十何時間かの汽車を乗りついで一目散に花巻に帰った。途中景勝の地などは勿論のこと、大坂にも東京にも足を入れなかった。別に何んの急用があるわけでもない。郷里に愛人があつたわけでもでない。自宅はアバラ家で雨漏りが烈しく・・・・
次に「復興への道」から
復興への道この小冊子の原稿の書き終えられたのが、一月の中旬でありました。それが印刷に廻るまで三ヵ月以上を要したのでありますが、それ一つは社会状勢の変動が甚苦く、三月の初めは不世出の英雄スターリンの急逝という大事件が起り、間もなく衆議院が解散されて、衆参両院総選挙が同時に行われることになつたりして、その必要があつたという事情もありますけれども、それはむしろ付随的な条件でありまして、突発事件の為に所論の骨子には何等の改造を施すこともなかったのであります。主たる理由は印刷費用稔出の問題でありました。私はこの稔出法として広告料を募集いたしました。この本に広告を掲載することは殆んど意義がありません。私は知己友人の間を奔走して、事情を訴えて出版費の応援を求めたのであります。正月元旦に私は急病を起しまして、其の後も体の加減がよろしからす、厳寒のせいもあつたでしようが、身軽に飛歩くことが出来なくて、この広告行脚に三ヶ月を費やして了つた次第であります。その間私の無理な願を聞入れてくれた諸者の広告は巻尾に一々掲載してありますが、これは読者諸君には無意味なものでありましようけれども、私に取つては忘れ得ぬ記念物であります。私はまだ別に書きたい題目を沢山持つて居るので、今後も著述は続けるつもりでありますけれども、広告行脚の方法を以て出版費用を稼ぐことはこれを持って最後にするつもりであります。
余談であるが僕はあまり平穏な正月を過ごしたことがない。八木が正月元旦に急病を起こしたように僕はバイク事故やひどい下痢と嘔吐を伴うような病気を起こしたりして正月休みを寝て暮らすことが多かった。
図書館から出て記憶を頼りにバス停に向かった。地図好きの僕が地図を持たずの旅行も妙なものだ。 バスに揺られる事10分「ホテル志戸平」の大きな看板が目に入る。すでに見慣れた文字ではじめての感じはどこにもなかった。隅々まで良く配慮が行き届いたホテルである。社員の教育も良いことが分かる。料理もすばらしかった。 温泉は渓流沿いにあり、広くゆったりとしている。泉質は単純泉だろう、透き通っていて硫黄の臭さは無い。温泉の下に川が流れていてその流れを見ながらゆったりとお湯に浸かる。
釜石鉄道
8月26日(月)
釜石線送迎のバスに乗って花巻駅へ。 釜石線の電車に乗ると宮沢賢治の本を読んでいる中年男性が向いに座っていた。遠野駅より釜石鉄道はあの「銀河鉄道」のモデルになった鉄道なのだ。「あの中年男性の方が正統的な旅行なんだよな。」僕は自分の旅行の特異さを感じて嬉しくなった。僕は以前から人と違う視点を持つ事がとても好きであった。「天邪鬼(あまのじゃく)」であった。物事を斜から見る事が好きだった。そして同じくちょっと違った見方をする他人も好きだった。それは僕と意見が合わなくて一向に構わない。「違い」が好きなのだ。
愛宕神社さて【遠野】に到着。別に意図も目的も無い。ただ知っていたから降りた。観光地だから何かあろうという安易な気持ちだった。さすが観光地、地方の駅にしては整備されていた。「駅からハイキング」と言うパンフレットが置いてあった。ハイキングに決定。 歩いているのが恥ずかしく感じられるほど誰も歩いていなかった。時折、車が通り過ぎるだけだった。通り沿いに低い軒が歩道近くまでせり出している建物があった。見ると昔の商店のようである。これが妙に懐かしく感じる。整備されたきれいな道路と不釣合いであった。パンフレットの地図に従って街道を外れる。愛宕神社への急な石段を上がる。釜石線列車途中で息が切れ、振り返ってみると眼下に猿ヶ石川とそこに架かる愛宕橋が見える。川の流れの音と川に寄り添うように走る釜石線の小さな電車の音が、交じり合って耳に心地よい。山道をしばらく歩いた後、遠野市立博物館に立ち寄る。釜石線遠野と言えば柳田國雄の「遠野物語」で有名。遠野と言えば民話である。懐かしい方言が身体に浸透して行く。話を聞いていると言うより、音楽を聴いているのに近い感覚だ。確かに話に意味があり話としても聞こえるのだが、音を聞いている感覚に陥ってしまうのだ。その方が心地よかった。時間の感覚が消えていた。東北の発音はどこかぼやけている、寒いから口を大きく開かないからだろうか・・・そのぼやけた感じが暖かく自分を包むのだ。
再び、釜石線に乗って新花巻駅、そして新幹線で帰宅の途についた。
見つからない本から見つけたもの
鳥谷ヶ崎駅帰宅後、今回の旅について振り返ってみる・・・ どうも軽便鉄道が気になった。冷麺を求めて歩いていたとき偶然に見つけた「岩手軽便鉄道花巻駅跡」、出会えなかった著作「釜石鉄道沿線繁盛記」そして釜石線への乗車、遠野への旅・・・。自宅に宮脇俊三氏編著の「鉄道廃線後を歩くX」があった。そこにちょうど岩手軽便鉄道(釜石線の前身)に関するが載っていたので調べてみた。 岩手軽便鉄道は現在の花巻駅近く“なはんプラザ”裏の「岩手軽便鉄道花巻駅跡」から今の釜石線とは逆に、まず南に向かい左に急カーブして市内を横断、北上川に沿うようにして現在の釜石線「似内(にたない)」駅で合流していた。そして僕が気になった旧国道上に架かる赤い橋、これが実は軽便鉄道の「さいわい橋」なる弧道橋であったのだ。さいわいはしさいわい橋この橋は昭和42年まで軽便鉄道の橋がそのまま使われていたが架け替えられたのだそうだ。その橋を渡った所、つまり僕が懐かしく松並木を眺めていたまさにその場所付近には【鳥谷ヶア駅】があったのだ。鳥ヶ谷崎駅跡花巻へやって来る乗客は国鉄(現JR)に乗り換える乗客以外、ほとんど鳥ヶ谷ア駅を利用したそうで賢治が赴任した稗貫農学校(現、総合花巻病院)や花巻女学校(現、生涯学習センター)の生徒たちもこの駅で乗降した。もちろんそこの教師であった八木もこの駅は利用したに違いなかろう。その軽便鉄道は昭和18年9月20日、改軌(線路の幅を変える)の為に現在のJR釜石線へ釜石〜似内(にたない)間3.7kmの現在の新線に軌道が変えられた。
八木は釜石鉄道(岩手軽便鉄道)設立の理事をしていた。彼のこの鉄道への愛着は後の著作「釜石鉄道沿線繁盛記」でも伺い知れるほど強かった。僕はその八木の思いに導かれるようにして今回旅をしたように思われた。旅を終えてからそれに気づいたのである。
自分と言う感覚
旧国道4号線からさいわい橋に上がりそこから生涯学習センターの松並木を眺めている僕の記憶が軽便鉄道の駅から花巻女学校を見る八木の姿に変化する。するとその松並木を行き交うたくさんの女学生が見えるような気さえ起こってくる。現在の僕の目を通して八木が70年後の世界を見ているように感じたかと思うと、僕が70年前に旅しているようにも感じられた。それが同時に起こっているような感覚になって、八木と僕の境界がぼやけてしまう。
自分と言う感覚はどこから来るのだろうか?もし、記憶が全て抜け落ちてしまったとしても自分は自分だと分かるのだろうか?僕は直感的に自分だという自覚はいつまでも残るのではないかと漠として思う。むしろ、それ以外の名前だとか役割だとか所属だとか・・そうした記憶の内にあるものは付随的なもので自分の本質ではないように思う。そしてその本質は永遠なのかもしれないし、普通に考えられている以上に大きなものであるかもしれない。時間的にも空間的にも。だから僕は自分の本質の部分が八木としてその時代に生きていた(いる)と言うアイデアも受け入れることができる。
僕の想像はさらに膨らむ。 本当はただ全体という唯一のものがあり、その窓として僕がここに存在しているのではなかろうか。前世といわれるものは時間的な枠組みの中での連続した意識。空間的には他人とも繋がっているのではないかと。 自分はここに存在している。ただ、ここに在る。その意識こそが自分の本質なのだ。
前世探訪3 シンクロニシティへ続く

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