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前世探訪1 前世との出会い
前世探訪
花巻へ
2002年3月29日(金)池袋は久し振りの本降りの雨。
仕事の帰りにオーケストラの練習に寄ったので、楽器を背負って僕は花巻行きの高速バスのバス停に立っていた。つい一週間前の予定ではこの時間、僕は大阪出張からの帰りの新幹線に乗っているはずだった。それが数日前、急にキャンセルになったのだ。僕はすぐに花巻行きの高速バス、花巻の宿、帰りの新幹線の切符を予約した。
3月初め、4月からの異動を前に花巻に行けるのは今月しかないと思っていた。が、それも月半ばで諦めていたのであった。毎週日曜日を団地の理事長としての仕事でつぶされていたのである。しかしその中で唯一の何も予定の無い日曜日が29日であった。
去年暮れ、僕はあるチャネラーの方に僕の前世と思われる人を調べていただいた。彼女が僕に教えてくれたのは僕が知らないしかも世間的にマイナーな人物だった。「八木英三」なる人物である。彼女は「私はあなたに伝えたがそれを強要はしない。調べてみてそうだと思えたらそうだし、そう思わなければそれまでのこと。」言った。
実はその頃、僕はネットで知り合った知人の紹介で「リラ自然音楽」と言うのを聞いていた。聞き始めて数日後、僕は突然溶剤アレルギーになってしまい、溶剤を扱うことが必須の職場を変えることになった。この音楽には体と心を浄化好転させるエネルギーがあるのだそうだ。どうも僕が溶剤を扱う現場から離れることができたのも一種の浄化かもしれない。その「リラ自然音楽」は宮沢賢治と少なからぬ関係があり、八木英三は宮沢賢治の小学校時代の先生だったのだ。
彼はいくつかの著作を残している事が分かった。その中ですぐに入手可能なものがあり読んでみた。それは宮沢賢治に関するものであった。その中の一節に以下のような文があった。その中の一節に以下のような文があった。読んで驚いてしまった・・・
翌朝井戸端で顔を洗つてゐると、ドット鼻血が流れて洗面器を真赤に染めた。母がピックリして登校を制止したけれども、「死んでもアノ子供等にまけるものか」といふ勇気が勃然として撞萌した。〔『女性岩手』第九号、昭和九年一月〕
これは賢治の居たクラスを新任の八木英三が上手くまとめることが出来ず、苦労していた時のエピソードである。実は僕は小さい時に洗面器いっぱいに鼻血を吐いた事があるのだが別段に驚かなかった(母は驚いたのだが)のを思いだして不思議な気分になった。
前述の「リラ自然音楽」には他にこんなエピソードがある。聞き始めて数日後、僕は突然、溶剤アレルギーになってしまった。それまではなんともなかったのに。その音楽には不思議な力があると言われていた。身体と心を浄化好転させるエネルギーがあるのだそうだ。どうも僕が溶剤を扱う現場から離れることができたのも一種の浄化かもしれない。こうして職場をかえることになったのだ。
花巻図書館
2002年3月30日(土)6時30分
乗客は2人だけのバスその異動を目前にして僕は花巻駅に到着した。外に出て寒かったらどうしようと思った。仕事の帰りにそのまま来てしまったので下着の用意しかしていなかったのだ。しかし花巻の空気は気を引き締める程度の程よい寒さであった。これならこのまま行ける。すべてがトントン進んでしまうのが嬉しかった。(この後のエピソードが前世探訪3に載っている。これを書いている時点では重要では無いと思いカットしていた。)
ホテルのフロントに楽器を預け図書館までの道のりを訪ねた。ロビーで流されているテレビからは同じ番組なのだが見たことの無いアナウンサーが東北地方の天気を伝えていた。花巻のバス乗り場には一昔前の型の古いバスばかりが停車していた。乗り込んだのは僕を含めて2人であった。僕が子供の頃に乗ったようなそんなバス。誰1人として乗り降りすることなく花巻文化会館前に着いた。まだ9時前だった。都内で言えば区立図書館の分室程度の小さい図書館であった。しかし、彼の著作はここにあるはずなのだ。 9時の開館と同時に一番乗りした僕はミーティング中の職員の横を通って書架の間に入っていった。
懐かしい親しみのある方言が優しく耳に入ってくる。僕は東京で生まれたがなんとも懐かしい気分にさせてくれるのだ。例えそれがミーティングの事務的な話であっても。花巻市図書館
それにしても彼の著作は一向に現われなかった。 そう簡単に見つかっては面白くもないだろうなどと楽しみながら書架の間を行ったり来たりしていた。 しかし見つけることが出来ない。まさかここまで来て見ることが出来ないはずは無い。八木英三はきっと僕に読ませたいに違いないのだから。必ず見つかると言う妙な自信だけがあった。
1時間程してついに僕は職員の女性に尋ねた。(僕は人に物を尋ねるのに抵抗がある性質でずっと尋ねようか迷っていた)彼の本はすべて書庫に納められていることがわかった。古いせいだろう。おそらく状態が悪いに違いなかった。
女性は古びた小さな本を4冊積み上げて持ってきてくれた。いよいよ彼の本との対面である。
書置き
それにしても彼の著作は一向に現われなかった。 そう簡単に見つかっては面白くもないだろうなどと楽しみながら書架の間を行ったり来たりしていた。 しかし見つけることが出来ない。まさかここまで来て見ることが出来ないはずは無い。八木英三はきっと僕に読ませたいに違いないのだから。必ず見つかると言う妙な自信だけがあった。
1時間程してついに僕は職員の女性に尋ねた。(僕は人に物を尋ねるのに抵抗がある性質でずっと尋ねようか迷っていた)彼の本はすべて書庫に納められていることがわかった。古いせいだろう。おそらく状態が悪いに違いなかった。
女性は古びた小さな本を4冊積み上げて持ってきてくれた。いよいよ彼の本との対面である。

「釜石鉄道沿線繁盛記」 昭和25年10月10日 鶴田印刷
釜石鉄道沿線繁盛記八木英三 64歳 釜石鉄道は現在のJR東日本釜石線の前身で、もと岩手軽便鉄道から旧国鉄に買収された路線。 彼は釜石鉄道を設立するための理事をしていた。 文中にこんな記述があった。「何分、老骨の努力は・・・・且つ、昨年・・・中指を骨折して・・・」 と骨折をおしてまで本を仕上げる執念、情熱はすごいものがある。 普通の本にしては異常な数の広告が巻末に載せられていた人脈の幅広さを物語っている。 僕は鉄道が好きだ。ただ、いわゆる鉄道マニアとは少し違っていると思っている。別に鉄道グッツを集めるわけでもない。母から聞いた話だが、僕はどんなにひどく泣いていても 汽車を見せれば泣き止む子供であったということだ。また、小学校低学年の頃だと思うが総武線(千葉と東京を結ぶJR線)を高架にする工事が終った時、地上部にレールがまだ残されていたことがあった。僕はそこへ危険を冒して忍び込みそのレールに顔を当て、そのグリスの匂いを嗅いだ。僕は鉄道に郷愁を感じる性質なのだ。「廃線」が好きなのである。これは今のようなブームがやって来る前からである。いつからか昔の地図を調べ、かつて鉄道があった跡地を訪れていた。そこに錆びた線路が残っているとなんとも言えぬ優しい気分に包まれるのである。これは本当に小さい頃からの性質であった。また、「道」にも同じような興味があり、昔ながらの道を歩くのが好きなのであった。昔の地図を手にどこかかつての痕跡が無いかと探して歩いた。それは「水路」にまで及ぶ。弟を連れて「探検」と称して昔の水路の後を推測し地図を作って実際に現地へ行った。 僕は彼のこの著作に僕のこれらの性質に繋がるものを見ている気がしてならなかった。そして奇しくも「・・・繁盛記」のような類の本も実は何冊か所有しているのだ。

「稗貫風土記・人物編」 昭和26年4月10日
稗貫風土記 人物編八木英三 65歳 岩手県稗貫郡 大沢温泉 在住この種の本にしては異例に長い序文が付されている。しかも3つに分けて記されている。 普通の風土記とはかなり趣を異にしている。これは彼に関わった人への感謝の気持ちを形にまとめたのではないかと僕は思うのである。確かにそれぞれの人物について功績等を語ってはいるのだが、それは明らかに八木自身から見たものなのである。その一人一人に関して思いを馳せ、心を込めて書いたものだと僕は推察する。まるでそれぞれの人に対するお礼状のようだ。何故か僕には彼の気持ちがよくわかった。これは自分に関わってくれた地域の人々へ対する彼の感謝であり、愛なのだと。一人一人の顔を思い出しながら筆を進める八木の心が感じられた。「人物編」しか彼が著さなかったのは、彼の著作の目的が人への感謝だったからであろう。 この異例に長い序文の中で彼の経歴の一端が記されている。 「私は多少の歴史と地理を学んだが・・・専門ではない」 「大正の末頃から昭和23年の春まで、公職の追放を受けるまで地方新聞を経営し・・」 彼は教員をする傍らなんと新聞も発行していたのだ。【花釜日の出新聞社】 余談だが、私は小学校で初めて選択した係りが「新聞係」であった。しかもほとんどの記事を自分で作ってしまった。そして機会あるごとにあちこちで小さな新聞のようなものを作ることを楽しんでいた。それは今も変わらない。そう言えば専門学校時代、ある新聞記者が授業を担当していた。彼は僕の文を書く能力をかってくれて特別に学校の機関紙創刊号への寄稿を僕に依頼したのだった。特に文を書く勉強したこともなかったのだが・・。

「復興への道」 昭和28年7月10日
復興への道 八木英三 67歳 この緒言に彼の重要な思想が記されているので長くなるが引用する。 「東条(英樹)にだまされて戦争したとか軍閥の犠牲となって我が児を失ったとか言うけれども 日清戦争や・・・明治・大正・昭和の数十年間に渡って我々は何度も戦争をしたのに対し、 この様なウラミ、ツラミは片言も聞かれなかった。 それは言論圧迫の為だったであろうか、否、勝ったからである。酬を受けたからである。・・・ 負けたと言う機会は我々に沈思黙考の為の最良の機会を与えられたということである。」
この考え方・・・まるで自分が書いたかと目を疑うような文であった。 おりに触れて僕は感じてきたし、言葉にし、文にもしてきた事なのである。 人が物事の善し悪しを判断するのは結局、利を得たかどうかなのである。そして利を得たときに人は一番大事なものを見失う。順調に行っているときよりも、ハタと人生の歩みを止める瞬間、そこにこそ学ぶ機会が存在するのだ。今までの流れでは行かなくなる変化の時にこそ最良の機会がそこにあるのだ。その時こそ重要なことを発見する。 彼が前世であるなら・・・面白いことになる。彼が一生をかけて到達したところを「思い出す」ために30年近くの年月を経たことになる。しかし彼に比べれば倍以上のスピードではある。こうして魂は先へ進むのだろうか? 彼はかなり経済的に苦しい状況だったようである。巻末におびただしい数の広告が載せられていた。彼は著作の中でこのようなことを述べている。 「この本にはこの類の本らしからぬ広告が巻末にある。ここの広告を掲載することは広告主にとって何のメリットも無いものである。私はこの本を出すための金を持っていなかった。そこで旧知の知人にお願いし、広告料として資金を集めたのである。これらの広告は私にとっては人生の記念碑的なものである。」

「花巻町政史稿」昭和30年1月20日八木英三 69歳 岩手県花巻市大沢温泉花巻町政史稿花巻の政治的歴史を記した本で彼の活動が面白く記されている。引用する。
「昭和4年の春にいよいよ花巻町が合併されることになったが、合併条件の一項に
『現在の花巻小学校校舎に中学校を建設すること』ということがあるので、合併が決まり新町会議員も出来たので、その夏から花巻連合青年会の理事幹事が活動をはじめ、中学校の創立運動を起こして当局に迫った。
九月初めに花巻町会が開かれた時、宮沢恒治、箱崎圭助、八木の三理事から町議会に対して「御願いたし度議有之議事終了後暫時御留席下され度」と言う陳情書を提出されたが、議員連中が之を無視して大沢温泉の慰労会に出かけてしまったので三理事と若干の幹事とが自動車で追撃、強談判と出た。」
「当時私は花巻電鉄支店長の社宅に住んでいたが無職であった。梅善町長は私を教員として採用してくれなかった。私は政党屋扱いにされていたらしい。」

僕は現在(この文作成当時)、団地の理事長を務めているが彼ほどのパワーは無い。しかしこの年で年配者を差し置いて理事長をしているのもなんとなく彼(八木)の影響なのかと面白く感じる。
彼は17歳の時に小学校の教員をし、そこで宮沢賢治と初めて会っている。
あまりにまとまりが無くうるさい生徒たちをなかなかまとめる事が出来ず、苦慮した八木は童話を読み聞かせることを思いつく。この目論見は成功し、生徒たちは熱心に八木の話に耳を傾けた。宮沢賢治は後に八木に会った時に、賢治の創作活動の原点は八木の読み聞かせであったと言っている。八木はすぐに早稲田で学ぶため上京している。八木はその後、九州や奈良に住む事もあったが常に気持ちは故郷にあり晩年は故郷、花巻で暮らしている。
前掲の「稗貫風土記」の序でこう言っている。
「私は九州に居て大宰府を知らず、長崎を見ない。奈良に住んで京都を知らない。・・・松島も中尊寺も見たことが無い。これらの名勝を探るよりも郷土の知己を誇り、荒涼たる郷土に對面することの方が私にははるかに愉快である。」
彼は郷土に徹した人であった。(前世探訪3では実際に体験?させられることになる。)
僕には彼の気持ちがよく分かる。僕も自分の住んでいる地に愛着を感じ、様々調べて歩いているのだ。別に遠くに出なくとも、いや、そこに住んでいるからこそ知りたいのである。同じ空間を時間で縦に切ったときに現われる連綿と続く人の生。そこに何か大きな広がりを感じるのである。自分の立っているこの場所でどのような生が繰り広げられてきたのか、どのような思いがそこにあったのかお昼過ぎに花巻図書館を後にした。
宮沢賢治記念館
帰りは花巻駅まで歩く事にした。電柱の住所を見ると【花巻市】と書いてあった。 改めて東北、花巻まで来ている自分に驚いていた。
(この後のエピソードが前世探訪3に載っている。これを作っている時点では重要では無いと思いカットしていた。)
行く宛ても無い僕は花巻駅へ向かった。そして観光協会の窓口に入った。今までの自分が決してしなかった行動だった。そこで僕は先ほど図書館で見た八木の晩年の住所である大沢温泉について聞いていた。「日帰り温泉はありますか?」自分でも思いもよらない言葉が自然に出てきた。日帰り温泉はあるらしいが既に日帰り温泉の時間は終っていたので、温泉行きはやめた。3時近くだったのでホテルに戻るにはまだ早いと思って「宮沢賢治資料館」に行く事を思いついた。しかしそのバスも電車もタイミングが悪く、目的地に着く頃には閉館の時間間際になってしまうとのことだった。 僕は観光協会を出て迷わずタクシーに乗った。その行動も今までの自分からはかけ離れていた。タクシーに乗ったことでその運転手から様々な情報を聞くことが出来た。これも八木の計らいかと思った。僕は運転手に大沢温泉への行き方を聞いた。大沢温泉は2つに分かれており、露天の方が趣があって良いとのことだった。そしてこの土地の食べ物のこと、風土のことを楽しく教えてくれた。そして彼は『花巻に来たら冷麺を食べな』と言った。この何気ないアドバイスも今後の前世探訪のキーワードの一つになるなどと、このときは気付かなかった。
タクシーに乗って彼の話を聞いて僕は大沢温泉に行く事を決意した。「決意」などと大げさな・・・と感じられるかも知れないが、僕にとっては大決意なのである。ひとり旅もはじめてであるが、僕は前述した通り地元志向。出無精。家に引きこもっていても別に困らない人なのである。温泉に入りにひとりで行動するなどと考えもしなかったのである。タクシーに乗ることも異例のこと。すべてが自分の考えとは関係なく、楽々と進んでいくのが楽しかった。
宮沢賢治記念館僕は特に宮沢賢治の本を読んだことは無かった。ファンでもないのでどうしてこの地に足を運んできたのか・・ただ何となく流されるようにしてたどり着いた。
展示品を見てまわる。彼に影響を与えた「法華経」様々な「鉱物」「アインシュタイン」「植物」 僕は賢治の生き方をある程度真似て生きているように感じられた。中でも僕の気を惹いたのは楽器であった。そこにはバイオリンとチェロ、そして4人が円になって同時に演奏できるように作られた譜面台が展示されていた。僕は「八木はこれを見たのだろうか?」と思った。恐らくある程度賢治のこれらの活動を知っていたのだろうと思った。
僕は賢治のチェロと妹のバイオリンを見て、「八木は僕の前世なのだろうか。そうで無いとしても構わない。僕には彼の気持ちがわかるような気がするのだ。そして彼の気持ちを通じて今、ここで生きている自分を理解する事もできる気がする。」と思った。(僕の弟はバイオリンを弾いているのも面白い一致)僕は聖書を数年間、ある程度教会で学んだ事があった。そして今、ヴィオラを弾いている。賢治は彼(八木)の影響を大きく受けたと言っている。八木はその様に賢治に言われた時、賢治の活動を恥ずかしながらよく知らなかったと言っている。おそらく八木はその後、賢治について調べただろう。そして賢治の生き様は八木にも影響を与えなかったはずはないと僕は思う。
いよいよ肌寒くなってきた。タイミングよく、市内まで100円のバスが来た。それは明日で運行を停止するバスであった。ガタガタと揺れる車窓に「新渡戸稲造記念館」が見えてきた。新渡戸稲造と言えば小さい頃からお世話になっている母の姉が住んでいる十和田市に縁が深かった。十和田でも新渡戸の名を良く見ていたのでこれまた不思議な気持ちで見ていた。
昨日の夜高速バスで眠れぬ夜を過ごした事や、朝、ファミレスが見つからず、市内をさまよった事、八木の本を貪るように読んだことが、何時起きた事か分からないような気分でホテルのベッドに横になった。時間の感覚が無くなっていた。いつのまにか寝てしまっていた。
そこで見た夢は2,3年会っていなかった人の夢であった。
大沢温泉
いつもの癖で5時頃、目を覚ます。静まり返った花巻の朝であった。もう一度寝て再び起きると、6時30分、東京からの高速バスがまた昨日と同じように到着したのだ。
カトリック花巻協会昨日と同じようにホテルで朝食をとった。まだ、温泉に行くには早かったのでふらっと市内に出てみた。 八木が勤めた花巻小学校に行こうと思いついたのである。地図も持たずにとにかく出てみた。「こちらの方角・・」程度の見当はついていた。ふと細い路地に惹かれて入ってみる。するとキリスト教会(カトリック花巻教会)があった。造りからカトリックであろうと思われた。大きな鐘が吊るされていた。しばらく行くとついこの間夢にみたような光景がそこにはあった。景色は違っていたが雰囲気が似ていた。僕は夢のときと同じように路地を入った。夢ではそこが僕の母校と言うことであった。期待とは裏腹にそこには「生涯学習センター」と掲げられていた。とにかく歩を進めてみる。そこだけタイムスリップしたように松並木がわずかに残っていた。門を入るとそこに石塔が建っていた。そこには「花巻高等女学校跡」とあった。なんとそこは八木が教師を勤めた事のある学校の跡地であった。感慨深くそばに立っていた松を触ってみる。そうすれば当時の記憶が湧いてくるのかと想像したのである。しかしそう言った劇的なことは何も起こらなかった。
さらに歩を進めた。 すぐに花巻小学校を探し当てた。何の事は無い、看板が出ていた。花巻小学校はかつて城があったところに造られたのだそうだ。今建っているのは既に新しい校舎である。もとはこの場所には無かったのだそうだ。調査不十分でもとはどこなのかは調べていない。今後の課題だ。花巻高等女学校跡
(前世探訪2で前の小学校跡地を発見する。しかし八木が勤めた年に現在の校舎のある場所に移転して来たことが前世探訪3の時に判明する。従って既に的確に八木ゆかりの地を訪ねていたわけである。前世探訪3製作中に追記)
その場に立っても何の感慨も湧かなかった。しばらくあたりを散策してホテルに戻った。 すると鐘が鳴った。大きな音である。先ほどのあの教会の鐘だ。ひょっとすると八木もこの音を聞いていたのではなかったろうかと思った。すると鐘の音が頭の中で一層大きくこだましているように感じられた。
昨日と同じバスに乗って大沢温泉に向かった。 バスから降りたのは2人だけだった。 とりあえず、昨日、タクシーの運転手に言われたとおりに「大沢温泉 自炊部」に向かう。坂を下るとなんとも歴史を感じる入り口が見えてきた。そこにニコニコと宿泊客を出迎えている宿の人が居た。楽器を彼に預け、400円を支払って露天風呂に向かった。とても古い。床がギシギシと鳴った。仲居さんらしい老婆とすれ違った、とても年をとっている。しかしこの古びた宿にとても良く溶け込んでいて自然だった。長く狭い廊下を抜けると少し下った所に露天風呂は見えた。なんと混浴である。今までそんな経験はなかった。しかしここまで来たこともあって何も考えなかった。2時間近く、出たり入ったり湯を楽しんだ。きっと八木もここへ来ていたに違いないと思った。目を閉じて・・・「八木さんここまで来たよ!あんたはまだ姿を隠しているのかい?そろそろ出てきてくれよ。」と祈るように考えていた。
大沢温泉途中で雨が降ってきた。雨の中の露天風呂もなかなか良かった。結局お昼近くまで温泉で過した。 帳場に戻って先ほどの宿の人に「八木」と言う家や墓はこの辺に無いかと尋ねた。彼は坂の上の店に聞くと良いとアドバイスしてくれた。早速お礼を言って坂を登った。
まず駐在所を尋ねた。どうも「八木」と言う人はいないらしい。 とりあえず、お墓の場所を聞いて行ってみる。しかし「八木」と言う名は無かった。 そして、店に向かった。
かなりのお年のおばあさんが店番をしていた。「八木英三」と言う人を探していると言うと、「ああ、みんな先生、先生と言ってたよ。この下で食堂をやってたよ。でも今はどうしているか・・」とのこと。それだけ面倒くさそうに僕に言うと客と何事もなかったように話を続け始めた。それ以上のことは聞けなかったが僕は初めて八木が生身の生きていた人間として感じる事ができた。それだけでもかなりの収穫だったと思った。帰りのバスまではまだ時間があったので先ほどの温泉の待合所に戻って休ませてもらうことにした。昨日買っておいたパンをそこで食べた。情報を得られたと宿の人に礼を言った。そして宿を再び後にした。その時坂を上がっていく宿の仲居さん2人が見えた。一人はかなりの年齢のおばあさんだった。さっき宿で見かけたあの老婆であった、腰が曲がっていた。僕は彼女に尋ねた。するとなんと彼女も知っていたのだ。
「この坂の下で蕎麦屋をやっていたね。よく若い人を集めて何かやっていたよ。奥さんは派手な人だったっけ、都会で暮らしていたの人だろ。でもあんたが生まれる前ずっと前だろうね。ここからは居なくなったよ。死んだんだかどうかは分からないね。あんた役所へはいったのかい?」
確かに八木はここに居たのだ。 僕は頭を叩かれたような衝撃を受けた。この人は八木を知っている。八木もこの女性を知っていただろう。僕はこの老婆を知らないと思っているが、記憶の奥底、あるいは記憶の外でこの老婆を知っているようだった。
彼女に礼を言いバス停に立つと田舎にしては珍しく(?)時間どおりにすぐにバスは来た 若い人を集めていたのは恐らく様々な政治的社会的な活動をしていたと言うことなのだろう。それに対して大沢温泉付近に住む昔ながらの人は少し煙たく思っていたのかもしれない。彼は晩年、公職を失ってからは細々と暮らしていたに違いない。しかし活動だけは止めなかったのだろう。僕としては彼の最晩年を知りたい、どのようにこの世を去っていったのだろうか?もし彼が僕の生まれた年に生きていたとすると80歳である。その前に亡くなっているはずだ。
前世探訪2へ続く

前世探訪